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水面を渡る情景

  • 執筆者の写真: atsux.
    atsux.
  • 6 日前
  • 読了時間: 3分

更新日:1 日前

「日本語オンラインクラス散歩道」ブログ 25.5-⑧


こんにちは。

「日本語オンラインクラス散歩道」のブログへようこそ。


採荼庵跡(さいとあんあと)
採荼庵跡(さいとあんあと)


大江戸線の清澄白河駅から5分ほどのところに、採荼庵跡(さいとあんあと)があります。採荼庵(さいとあん)は、この地で幕府御用の魚問屋を営んでいた杉山杉風(すぎやまさんぷう)の別荘でした。杉風は松尾芭蕉(まつおばしょう)の大切な門人の一人でパトロンでもありました。芭蕉はそれまで住んでいた芭蕉庵を人に譲った後、奥の細道へ旅立つまでの間、この採荼庵に滞在しました。採荼庵を模した建物の玄関先には、まさに150日間にもわたる奥の細道への大旅行に挑もうとしている旅姿の芭蕉像があります。芭蕉が深川を出発したのは、1689年3月27日(新暦5月16日)のことでした。


せっかくなので、記念にスマホで写真をとらせていただきました。


採荼庵跡の松尾芭蕉像
採荼庵跡の松尾芭蕉像

月日は巡りに巡り、私たちは、過去の繁栄と数々の苦難の記憶を刻み込んだ社会の中で生活しています。もし芭蕉が現代によみがえって、この社会をくまなく見渡したとしたら、どのように感じ表現するのでしょうか。



採荼庵のすぐそばを流れているのは仙台堀川(せんだいぼりがわ)です。江戸時代は、仙台からの米をたくさん運んできた運河です。芭蕉はここから舟で奥の細道への旅へ赴いたと考えられています。


「むつましきは宵よりつどひて、舟に乗って送る。千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに別離の泪をそゝぐ。」


これは『奥の細道』の<旅立ち>の中の一節です。ここで芭蕉は、「舟」と「船」を使い分けています。このことから、小さめの舟で深川を出発し、両国あたりで大きめの船に乗り換えて隅田川(すみだがわ)を北上し、矢立初めの地である千住で船から上がったということが推測できます。


仙台堀川
仙台堀川

隅田川と小名木川(おなぎがわ)が合流する地点の少し下流にある清洲橋(きよすばし)の上から眺めると、外国からの観光客にも人気の水上バスが、けっこう頻繁(ひんぱん)に行き来しているのを見ることができます。


清洲橋から浅草の方向を望む
清洲橋から浅草の方向を望む

動力がまだ発明されていない時代の水運は大変だったことでしょう。浮世絵には櫓(ろ)や棹(棹)で舟を操っている様子が描かれています。大きな屋形船にいたっては6,7人の男たちが、屋根の上などから棹を使って船をコントロールしている様子が描かれています。帆船も描かれている浮世絵もあり、風が利用できるときは、帆をかけて川をさかのぼったのでしょう。橋の上にいると、海側から上流に向かう風が背中を押すように吹いてきます。



清洲橋から少し上流に行くと、「東京水辺ライン両国発着場」があって、外国からの観光客でにぎわっています。さらに行くと浅草です。


東京水辺ライン両国発着場より蔵前橋を望む
東京水辺ライン両国発着場より蔵前橋を望む

「東京水辺ライン両国発着場」と通りを隔てた反対側には両国国技館があり、今日はちょうど5月場所の初日でした。


5月場所初日
5月場所初日

この辺で人気の食べ物といえば、やはり、ちゃんこ鍋と浅利(あさり)めしでしょうか。もちろん、蕎麦(そば)やすしもおいしいですが。


それでは次回またお会いしましょう







 
 
 

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